夕映えのトマトスープ

インターネットの地層に埋まる化石。

やる気ない時に違う事に現を抜かしちゃう現象の最終形態。(in other words, I miss you.)

どうにもやる気が起きない。疲れてるわけじゃないけど全てに対してやる気が起きない。趣味や好きでやってることにもやる気が起きなーい。そんな日もあるか!深く考えない!

何事にも波ってものがあるけどさ、波が穏やかな時に頑張れなくなるのどうにかしたいよなー。波が穏やかな時こそ積極的に動いて、荒い時こそ落ち着いていられたらいいのに。
天候とか気分の浮き沈みに左右されずに、機械的でいいから、続けること。それがこの先の自分を作っていく。知らぬ間に運命の分かれ道になっているかもしれない。

何も解決していないが心は穏やかだ。不安感はいつもより弱い。
心がこの状態なら解決したって言っちゃっていいんじゃない?行動は同じでも。
いや、多少は変わったのか…
とにかく、変わろうと欲することはきっぱりと辞めた。
私は私のままでいい。
昔に戻ろうとか思わなくていいし、今のままでいい。
ダメな所も好きになれない所も、全部ひっくるめて私だ。
私は私だ。
この先どんなに見た目が変わろうと、生き方が変わろうと、私であることは変わらない。
十何年前や、つい一ヶ月前でも同じこと。変わっているように見えるけど、私が私であること、ただ一つそれは変わらない。
人は生まれながらに「自分」を持ってる。
だから「自分がない」と悩んだり「自分探し」の旅に出たりしなくても、答えはもう持っている。
なのにどこを探しても「自分」なんていないような気持ちになることがある。偶然ここに集まった原子をそう呼んでいるだけであって、私が自分だと信じているものは本当はどこにも存在しないんじゃないかと。そうなると、この世に所属しているという感覚がまるっきり感じられなくなってくる。
自分は他の全てのものから切り離された一個の個体なのだろうか。
それともこの世界、地球、宇宙を構成する一要素にすぎないのだろうか。果たして私はこの世界と有機的に繋がっているのか。
宇宙との一体感なんて感じたことはない。あまりにスケールが大きすぎて現実味がないし。でも目の前のことにだけ心を奪われて、同じような日々の繰り返しで一生を終えていいのだろうか。
非現実的なことがしたい。
今すぐ来てほしい人を呼べない自分であることは辛いね。
結局は現実的なこと、目の前のことに目を向けて、着実に自分を教育していくのがいちばんの近道らしい。
宇宙の謎や生まれてきた意味は、理性で解き明かそうとすればするほど遠ざかっていく。
どうしたらいいかなんて本能が知ってるくせに。だから哲学者はじさつするって言われちゃうんだよ。
はー。やっぱり人間らしくいようとすればするほど俗っぽい悩みに立ち戻ってしまう。現実を超えた先に究極の現実が、幻想をも包括した謂わば極現実なるものがあるのだろう。それを見に行くためにまずは至近距離の小さな課題に取り組むことにしよっか。
極現実を見に連れて行ってくれるのはあの人だけ。あの人はこんなこと考えもしないだろう。そこがとてもすき。