夕映えのトマトスープ

インターネットの地層に埋まる化石。

あした

あした生きたくないとばかり考えている
行きたくない 生きたくない
社会の歯車にもなりたくない
でもあしたはやってくるわけだし
逃げも隠れもできないのです
我慢しよう
行こう 生きよう 行こう 生きよう
生きよう
行きたくない 生きたくない
我慢しよう
我慢今だけ我慢我慢我慢

早くこの地獄から抜け出したい
早く一人になりたい
あと一週間あと一週間あとあとあとあと一週間
地獄のように長い一週間
早く
早く
早く
しにたくなる前に
早く
早く
早く
早く

わたしはおかしいのかもしれない。

なんてね。おかしいと認めてしまった時点でおかしくなるんだから。自分でそう決めることさえしなければやはりわたしは普通なのです。

そもそも他の大多数の人にとって異常な行為だとしても、私にとって普通ならばそれはごく当たり前の至極真っ当な行為でしかないのです。

こういうのを正当化と言うんだろうか。

わからん。正当化するということは自己を容認することなのではないだろうか。ならばいい傾向?良い方向に向かってます?

おかしい。ううん。おかしくないよ。

思考をストップさせちゃう。ついつい。

ちょっと散歩でもしよっか。

無理に考える必要はないよ。

きっかけを待とう。待ってるだけじゃだめ。見つけにいこっか。

もう既に、

吐く時の苦しさとか忘れてしまいましたー

1時間も経ってないのにね

すぐに忘れちゃうから繰り返すんだろうね

どーしてこんなに忘れっぽくなったのかしら


今日なんて自炊してめちゃ美味しい(しかもヘルシー)なスープを食べて満腹になったんだけどね、なんかこれじゃ足りないような気がして、お腹はいっぱいなのにお菓子を食べまくらないと気が済まない気がして、アイスを一個食べたら止まらなくなってまさしくフードファイターのように必死に口に詰め込んでいました。

口の中が高カロリーなものでふさがった時の、心まで満たされるような感覚はなんなのでしょうか。一種の陶酔、、

チョコアイス、チョコケーキ、チョコクッキー。今日はチョコ縛りでいこうか。「こんなに食べたら鼻血が出るよ」昔聞いた声。「だめじゃない、甘いものばっかり食べて」背徳感。たまらなくなる。

食パンの袋を開け、取り出して、マヨネーズをバカみたいに絞る。こんな高カロリーな物食べていいんだろうか。罪悪感。たまらない。1枚、2枚、もう1枚だけ食べとこっか。そしてまたアイス。チョコ。口中の色がコロコロと移り変わり、麻痺してくる。お米も食べておこう。時間がない。素手で掴んで口に放り込み、直接マヨネーズと醤油をかける。うん、うん、食べ物の味。食べ物の味。

脂肪と糖でできたものは舌が喜ぶ味がして、ハイスピードで噛み砕くとなんだかスポーツでもしてるみたいで、一気に喉を通過する感覚はまさに至福。自分の体内に吸い込まれていく多量の物体。満たされる。

そしてトイレに駆け込む。今度は飲み込んだ物体を排出する。右手の指を喉の奥の奥に突っ込んで、胃のあたりを左の拳で押す。リズム感が大事。1、2、3。はい。ああ、喉が焼ける。目からも鼻からも水が出てくる。涙ではなく胃液なのだろうか。気持ち悪くなるポイントを探すのにも慣れた。単純作業のようにそこを刺激して、1、2、はい。この時間だけは苦しい。涙に擬態した液体が後悔を誘う。

陶製の器がさっきまで私の一部であった食物たちで塞がっていく。満たされてゆく。そして流す。ズゴゴゴと凄い音を立てて吸い込まれていく物体たち。達成感。満たされる。

口を濯いで、歯を磨く。「吐き切れたのだろうか」という不安が突如襲いかかる。柔らかい液体と化したチョコレートや溶けたアイスクリームが、まだ胃の奥の方に沈んでるんじゃないか?マヨネーズは食道の壁にへばりついてるんじゃないか?無我夢中に口に放り込んだ物体たち、すべて排出できた気がしない。ああ、食べなければよかった。どうして満腹になった時点でやめられなかったのか。時すでに遅し。いつものパターン。なぜか安堵感。私はやはり私だ。私は私でしかなく何一つ変化などしていない。私はいつも同じことを繰り返すからそのままで、ずっとこのままでいられるのだ。バカだなあ。よかった。これが自分。

ごめんなさい、製造会社さん。農家さん。でも買った時点で私のものでしょう。人としておかしい。なぜ罪悪感を感じなくなったのか。慣れって怖い。ごめんなさい、お母さん。でも知ってます。あなたは買うことがストレス発散だから、私が食べて処理するのを望んでるんです。なんてね。都合の良い解釈。

いつまで続くんだろうか。不意に怖くなってくる。現状が続けばいいとさっき祈っていなかったっけ。やめたい。やめたくない。やめられない?やめられる?やめたくない。やめたい…

そして思考回路をストップさせる。いつも通りの生活に戻ろっか。整腸剤を飲んで、さあこれで元どおり。

え?何もなかったでしょ?

何食わぬ顔をして母を出迎える。おかえりー。いつも通り。平常。狂ってる。異常。これが普通。


いつまで続けるんだろうか。

うう、

考えるより先に行動!したい、、。

また考え始めたら止まらなくなって1時間が経過してた、、嘘でしょ。。

眠くはないけど目が限界、超絶疲れたしぱしぱする、、、。

うう、全身が痒くなってきた、、、

やろ!とりあえず動こう、動かねばあーー

どうなんだろう

病院に行ったほうがいいのかな。病院に行ったら治るのかな過食嘔吐って。

そもそも私は病気なんだろうか。本当に病気の人に申し訳ないような気もしてしまう。自分のはただの甘えや勘違いなんじゃないだろうか。そんな風に自分が味わったはずの辛さまで疑ってしまう。

毎日毎日。ここ2ヶ月苦しまなかった日の方がはるかに少ない。でもそれは自分が未熟だからなのかな。自分で治せよと思う?

病院に行きたい。それって甘え?過剰な期待?現実逃避?

私はどこまでもゴミなんだな。やめよやめよそうやってディスるのは!元気出せよ元気出せよ

もう振り回されたくない、、、過食嘔吐から解放されたい

でも本当に私が解放されたいのは過食嘔吐なの?本当の望みって何????????

ああ、どうでもいい、どうでもいいよ今はそんなこと。病院に行ってもいいですか、、?

そんな大したことじゃないから行っちゃおっか。ビビってどうするの…?

藁にもすがる思いなんだから、一回だけ行ってみよう?うん、うんそうしよっか…

心がざわざわする

なぜだか、際限なく食べ続けられるようになってしまった(習慣)。それに罪悪感を感じることもなく(吐くという安心感)。いくら食べても苦しくならないし(胃が大きくなってる)。吐ききれなくてもいいやと諦めたりもする(現実逃避)。
馬鹿だねえ。目の前の食べ物を少しだけ我慢すれば、諦めてた人生の喜びをもう一度手にすることができるっていうのに。焦って結果を求めなければ、そんなに時間のかかるものでもないのに。笑っちゃうほど単純なのに。
でも一度成功体験をした私は、それまでの私より確実に進化してる。それに、一度愛される幸福を知った私は、それまでの卑屈な自分とは違う。
と、思いたいが。何も代わり映えしないような気がどうしてもしてしまうのは一体何のせいなんですか?幼少期の成長の著しさを今になって感じる。一週間もすればまるっきり違う姿になってたよね。子どもって尊い。キラキラしてる。
14歳の頃から私の成長スピードは著しく低下したなって感じる。同じことに悩み続けてるんだけど、これって普通のこと?
筆跡もろくに変わってないし、見た目もたいして変わってないし、性格もそのまんま。対人関係も生活習慣もだいたい同じ。成長したのは考え方くらいかな。
これでいいのかな。こんなんでいいのかな。今のままでいいのかな。
私この先もずっとこのままなんだろうか。子どもほどの成長は見込めないだろうけど。大人になったら何ひとつ変われなくなるんだろうか。いやそんなことはない。ないっていうのが理想だけど…
はあ。大人ってなんだ。いつのまにか辻褄を合わせることに必死な人間になっちゃった。楽しみといえば束の間の娯楽くらい。人生そのものを楽しむってことをいつのまにかしなくなってた。発見と喜びと好奇心に満ちた毎日なんて望郷の彼方って感じがしちゃう。
でも大人が体験しうるあらゆることを体験したわけではまだないから、私はまだ子どもなんでしょうね。飲酒もできないし。二十歳になった瞬間から大人に切り替わるわけでもないのに、なぜか特別な意味を持たせたがる。無味乾燥な人生をそういうふうに装飾したがるのが私という人間なんです。
子どもでも大人でもない人間が街に溢れてる。大人になりきれない人のなんと多いこと。子どもは純粋に子どもなのに。どれだけ大人びていても子どもは子どもでいられるのに。子どもでいられなくなった人々はどっちつかずの不安や焦燥に悩まされる日々を送らなきゃならない。大抵はそんなこと意識しないけど。無意識に現実から目を背けているから。
大人になって初めてできることよりも、子どもだからこそできたことの方がはるかに価値あるものに思えてしまう。でも空しくなるから蓋をしよう。大人にしか許されない創造もあるわけだし。そのようなことに没頭すればいいじゃない。ああ空しい、むなしい。

眠くてしょうがなくなってきたからここで打ち切らなきゃならない。何か答えは出たかしら。何を考えてたのかもよくわからない。
自分の座標を明らかにしたかったんだねたぶん おやすみ

やる気ない時に違う事に現を抜かしちゃう現象の最終形態。(in other words, I miss you.)

どうにもやる気が起きない。疲れてるわけじゃないけど全てに対してやる気が起きない。趣味や好きでやってることにもやる気が起きなーい。そんな日もあるか!深く考えない!

何事にも波ってものがあるけどさ、波が穏やかな時に頑張れなくなるのどうにかしたいよなー。波が穏やかな時こそ積極的に動いて、荒い時こそ落ち着いていられたらいいのに。
天候とか気分の浮き沈みに左右されずに、機械的でいいから、続けること。それがこの先の自分を作っていく。知らぬ間に運命の分かれ道になっているかもしれない。

何も解決していないが心は穏やかだ。不安感はいつもより弱い。
心がこの状態なら解決したって言っちゃっていいんじゃない?行動は同じでも。
いや、多少は変わったのか…
とにかく、変わろうと欲することはきっぱりと辞めた。
私は私のままでいい。
昔に戻ろうとか思わなくていいし、今のままでいい。
ダメな所も好きになれない所も、全部ひっくるめて私だ。
私は私だ。
この先どんなに見た目が変わろうと、生き方が変わろうと、私であることは変わらない。
十何年前や、つい一ヶ月前でも同じこと。変わっているように見えるけど、私が私であること、ただ一つそれは変わらない。
人は生まれながらに「自分」を持ってる。
だから「自分がない」と悩んだり「自分探し」の旅に出たりしなくても、答えはもう持っている。
なのにどこを探しても「自分」なんていないような気持ちになることがある。偶然ここに集まった原子をそう呼んでいるだけであって、私が自分だと信じているものは本当はどこにも存在しないんじゃないかと。そうなると、この世に所属しているという感覚がまるっきり感じられなくなってくる。
自分は他の全てのものから切り離された一個の個体なのだろうか。
それともこの世界、地球、宇宙を構成する一要素にすぎないのだろうか。果たして私はこの世界と有機的に繋がっているのか。
宇宙との一体感なんて感じたことはない。あまりにスケールが大きすぎて現実味がないし。でも目の前のことにだけ心を奪われて、同じような日々の繰り返しで一生を終えていいのだろうか。
非現実的なことがしたい。
今すぐ来てほしい人を呼べない自分であることは辛いね。
結局は現実的なこと、目の前のことに目を向けて、着実に自分を教育していくのがいちばんの近道らしい。
宇宙の謎や生まれてきた意味は、理性で解き明かそうとすればするほど遠ざかっていく。
どうしたらいいかなんて本能が知ってるくせに。だから哲学者はじさつするって言われちゃうんだよ。
はー。やっぱり人間らしくいようとすればするほど俗っぽい悩みに立ち戻ってしまう。現実を超えた先に究極の現実が、幻想をも包括した謂わば極現実なるものがあるのだろう。それを見に行くためにまずは至近距離の小さな課題に取り組むことにしよっか。
極現実を見に連れて行ってくれるのはあの人だけ。あの人はこんなこと考えもしないだろう。そこがとてもすき。